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1-4 玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野 中皇命
たまきはる:宇智(現在の五條市)にかかる枕詞
大野:人里離れた野
作者の中皇命は、舒明天皇の皇女である間人皇女(はしひとのひめみこ)と、
皇后(後の皇極天皇)の説がある。私を万葉の時代に導いてくださった
津之地直一氏の皇后説を取りたい
尾久の原公園
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5-847 我佐可理 伊多久々多知奴 久毛尓得夫 久須利波武等母 麻多遠知米也母 大伴旅人
くたちぬ:衰えた
をち:むかし
めやも:・・・だろうか、いや・・・ではないだろうなあ
在大宰府、太宰帥として赴任中(728年~730年)、晩年(731年没)の歌
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19-4249 伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹猟太尓 不為哉将別 大伴家持
しのぎ:押し伏せる
石瀬野:高岡市または富山市あたり
越中の国司として赴任していた家持が任期を終え、平城京に戻ることになっときに詠う(751年8月末)
鷹と鷲の違い:概ね鷹が大きくなると鷲と呼ぶ(写真は鷲) |
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10-1903 吾瀬子尓 吾戀良久者 奥山之 馬酔花之 今盛有 作者未詳
恋ふらく:恋しく思う
あの人を恋しく思う気持ちは、今を盛りと咲く馬酔木の花そのものです
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14-3387 安能於登世受 由可牟古馬母我 可豆思加乃 麻末乃都藝波思
夜麻受加欲波牟 作者未詳
足音のしない馬が居たら、葛飾の真間の継橋を渡ってあの人に逢いに行くのに
馬は4~5世紀頃朝鮮半島からもたらされた。体高は130㎝程度の小型馬(サラブ
レッドは160㎝位)
真間の継橋:市川市にかつて存在した橋
継橋は板で出来ていたので馬が渡ると大きな音がした
駒もが:願望 馬がいればよいのに
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8-1616 毎朝 吾見屋戸乃 瞿麦之 花尓毛君波 有許奴香裳 笠郎女
笠郎女:かさのいらつめ 家持に送った歌は多数収載されている、その内の一首
ありこせぬかも こす:~してくれる、 ぬかも:願望
あってくれて欲しい、あって欲しい
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8-1461 晝者咲 夜者戀宿 合歓木花 君耳将見哉 和氣佐倍見代
紀女郎:きのいらつめ きのおしか (小鹿)ともいう
大伴家持と交わす歌の一首で、若い家持に贈った戯れの歌
君:ここでは小鹿を指す
戯奴(わけ):二人称の代名詞、目下の者に使う 家持を指す
私一人で見るよりも、おまえも共に見るが良い
この花を見るのは初めてのような気がする。高木の上の方に咲くので
目にする機会がなかったのだろう、繊細で美しい。
安藤坂 |
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10-1976 宇能花乃 咲落岳従 霍公鳥 鳴而沙度 公者聞津八
霍公鳥の鳴き声をYouTubeで聴いた やさしい声だった
小石川植物園 |
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8-1471 戀之家婆 形見尓将為跡 吾屋戸尓 殖之藤浪 今開尓家里
山部赤人 聖武天皇時代の宮廷歌人と思われる
既掲載歌 み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも
春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ
一夜寝にける
須藤公園 |
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8-1472 霍公鳥 來鳴令響 宇乃花能 共也來之登 問麻思物乎
石上堅魚 いそのかみのかつを
太宰帥大伴旅人の妻の逝去(728年)に都から弔問使として遣わされる
霍公鳥を旅人に、卯の花を亡妻に喩えて詠む
とよもす:鳴り響かせる
問はましものを:尋ねられればよいのに
小石川植物園 |
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2-0166 礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
大伯皇女(大來皇女とも)は12歳(673年)~25歳(686年)まで斎宮として伊勢神宮に奉仕
君とは弟大津皇子(天武天皇皇子)、密かに伊勢神宮に姉を訪ねた後謀反の罪で処刑される
礒:岩の多い水辺
なくに:・・・ないことなのに、 ・・・ないのに 小石川植物園
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19-4139 春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立オ嬬
天平勝宝2年3月1日(750年4月10日)越中国守として赴任中の作
本法寺境内 |
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19-4143 物武乃 八十嬬等 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花
解釈には二通りあり、'娘子たちがいてそこに堅香子の花が咲いている'、
'堅香子の花の姿が水を汲む娘子のように見える'
私は後者を採りたい・・・寺の井戸は誰でも使えたのだろうか?
小石川後楽園 |
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7-1121 妹等所 我通路 細竹為酢寸 我通 靡細竹原
靡此山 靡細竹原 さて、時代はどちらが先なのでしょう
がり:~のもとに、~のところへ
六義園
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2-184 東乃 多藝能御門爾 雖伺侍 昨日毛今日毛 銘言毛無
日並皇子=草壁皇子:天武・持統天皇の皇子は持統3年(689年)28歳で薨去
宮は石舞台あたりにあったらしく、東門の近くを飛鳥川の早瀬が流れている
皇子の死を悼んだ歌は柿本人麻呂と宮の舎人の23首がある
中でもこの歌は嘆きや悲しみの言葉がなく、それでいて哀しみに沈む舎人の姿が想像され、
挽歌の中で一番好きな歌である
・・・終身雇用は何時からだろう 六義園 |
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6-924 三吉野乃 象山際乃 木末爾波 幾許毛散和口鳥之声可聞
聖武天皇が神亀2年(725年)吉野宮行幸に従籠の折詠う。
象山:吉野町宮滝にある山
近くに吉野離宮があった
ここだ:たいへんに、たいそう(数・量)
六義公園運動場 |
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6-1009 橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹
天平8年(736年)11月、葛城王が皇族の地位を辞し、外家の橘姓を賜ったことを
祝う宴席で詠われた |
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8-1458 室戸在 櫻花者 今毛香聞 松風疾 地尓落良武
8-1459 世間毛 常尓師不有者 室戸尓有 櫻花乃 不所比日可聞
厚見王から久米郎女への贈歌
あなたの家の桜の花は、今頃は松風が激しく吹くために地面に散っているでしょう
久米郎女答えて
世の中も無常ですから我が家の庭の桜も今は散ってしまいました
互いに相手の心変わりを疑い合っているふりをして、ふざけている |
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17-3967 夜麻我比爾 佐家流佐久良乎 多太比等米 伎美尓弥西氏婆 奈尓乎可於母波牟
17-3970 安之比奇能 夜麻佐久良婆奈 比等目太尓 伎美等之見氏婆 安礼古非米夜母
天平19年(747)3月29日、病床にある家持から'花を手折る力もない'(17-3965)との
嘆きに答えて池主が、そして、池主から贈られた歌に対し家持が返歌を贈る |
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1-73 吾妹子乎 早見濱風 倭有 吾松椿 不吹有勿勤
長皇子は天武天皇の皇子、文武天皇に従駕して難波宮に滞在した折都に残した妻を
想って詠む
「吹かざるな」の「な」は強い禁止 ここでは(吹かざる)否定+(な)禁止=肯定
しかも「ゆめ」がつくので・・・混乱 |
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2-116 人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
2-203 零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 寒為巻尓
世間の人が口にする噂がひどいので、私はまだ渡ったことの ない未明の川を渡ります
但馬皇女が高市皇子(654-696 天武天皇の第一子)の宮に居た頃、異母兄の穂積皇子
(天武天皇第五子)の宮に通う。この密通が露見し穂積皇子は一時左遷させられる
穂積皇子は但馬皇女の死後、皇女の墓のある岡を遥かに望み、涙して詠んだ歌
・・・ 降る雪は あはにな降りそ ・・・ |
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5-866 波漏々々爾 於忘方由流可母 志良久毛能 知弊仁邊多天留 都久紫能君仁波
白雲が幾重にも重なったさらにその先にある遠い国、筑紫を遥か遠くから
思いやっています。
きちたのよろしさんが都から筑紫にいる大友旅人に贈った歌(727~730年頃) |
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17-3965 波流能波奈 伊麻波左加里尓 仁保布良牟 乎里氐加射佐武 多治可良毛我母
春の花は今は盛りと咲き誇っていることでしょう。
折って髪の飾りにできる腕の力がほしいです。
天平20年2月29日(748年4月1日)、病の床から大友池主に贈る |
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19-4284 新 年始尓 思共 伊牟礼 氐乎礼婆 宇礼之久母安流可
天平勝宝5年1月4日(753年2月11日)、
思ふどち(仲間たち)との宴席にて |
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12-3153 三雪零 越乃大山 行過而 何日可 我里乎将見
雪の降る越の大山を通り過ぎてきた、いつになったらわが故郷を見られるだろう
越の国(福井・石川・富山・新潟)からの税の徴収に派遣された役人の歌 |
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9-1748 吾去者 七日者不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落
難波に行って戻って来るのに七日はかかりません。
風の神龍田彦様、戻って来るまで風に散らせないでください。 |
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2-103 吾里爾 大雪落有 大原乃 古爾之郷爾 落巻者後
2-104 吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
天武天皇が1キロも離れていない大原の里に住まう夫人に、大雪が降ったことを自慢し、
夫人も負けずに言い返す。
からかい半分の互いの歌の中に気遣いのようなものが感じられ、"むらさき"のやり取り
より好きな歌だ
昭和36年1月2日 新潟県柏崎市 |
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10-2103 秋風 冷成奴 馬並而 去来於野行奈 芽子花見尓
向島百花園 |
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12-3059 百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾将持八方
つゆくさのことを月草といった
当時は色があせたようだが、白けた花を見たことがない。
向島百花園 |
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10-2124 欲見 吾待戀之 秋芽子者 枝毛思美三荷 花開二家里
向島百花園 |
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20-4295 多可麻刀能 手婆奈布伎故酒 秋風尓 比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母
753年9月半ば、池主さん等官人たちが酒壺を提げて高円の野に登り詠った
紐を解くのは普通は男女間に使われる言葉、ここでは上着の紐を解いてくつろぎましょう
という意味なので、"ただならずとも”別に意味はなくても、と断っている
向島百花園 |
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1-11 吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
中皇命(なかつすめらみこと)については、斉明天皇説と間人皇女(はしひとのひめみこ)
説があるが正確なところはわからない。
それでは私の勝手にさせてもらおう。
斉明天皇とすれば、背子は中大兄皇子となり、私の乏しい知識での想像の世界が、
動きと色をつけてくれる。 向島百花園 |
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11-2480 路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀□(女偏に麗)
彼岸花・曼珠沙華を壱師という
いちしろく・・・直訳すると著しく明白に 訳では、壱師の花が目立つように
小石川後楽園 |
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4-496 三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
持統天皇吉野行幸に従駕した折の作で、時期は9月半ば過ぎという記述があり、
盛夏の浜木綿は終わってしまっている
"百重なす"を花・葉・波の説があるが、房状に重なり合って咲く花姿から花を採りたい |
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16-3837 久堅之 雨毛落奴可 蓮荷尓 渟在水乃 玉似有将見
兵衛府で酒宴が催されたとき、食べ物が蓮の葉に盛り付けられていた。
その折、ある兵衛が請われて詠った
不忍池、撮影後予報はずれの雨に降られる |
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3-378 昔者之 舊堤者 年深 池之瀲尓 水草生家里
藤原不比等生前中に度々招かれて歌を詠んでいた
不比等が亡くなって(720年)10数年後に訪れて
須藤公園 |
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9-1665 為妹 吾玉拾 奥邊有 玉縁持来 奥津白浪
真珠を白玉・玉・あわび玉と呼んでいた
また、きれいな白い丸い石も白玉と呼ばれていた
この歌では石を拾い集めていたのだろう |
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10-2104 朝杲 朝露負 咲雖云 暮陰社 咲益家礼
朝顔とは当時は桔梗のことらしい
今年(令和元年)初咲きの一輪、終日小雨もあってしおれずに夕方4時まで
待っていてくれた |
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2-133 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
悲しい別れを詠う長歌の反歌(岩見相聞歌)
長歌の最後 妹が門見む 靡(なび)けこの山
モーゼや珍島のように、海が割れて道ができるような荒々しい景色ではない
なびけ・・・優しいですねぇ |
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19-4161言等波奴 木尚春開 秋都気婆 毛美知遅良久波 常乎奈美許曽
小石川後楽園 |
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2-141磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
決して再び見ることが出来ないとを知りながら・・・
小石川後楽園 |
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3-313 見吉野之 瀧乃白浪 雖不知 語之告者 古所念
持統天皇お気に入りで頻繁に行幸された吉野宮
宣令(せんりょう)さんは首皇子(後の聖武天皇)の教育係を務めるが持統・聖武の
端境期、吉野行幸に従駕の機会は無かったか
須藤公園 |
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1-54 巨勢山乃 列々椿 都良々々尓 見乍思奈 許湍乃春野
701年秋、現在の奈良県御所市古瀬にて、葉ばかりの椿に春を思い描きながら詠んだ
つらつら椿 つらつらに ・・・ いい響きですね
小石川植物園 |
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19-4291 和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母
しばし佇み、葉擦れの音を聞こうと・・・
向島百花園 |
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8-1418 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
万葉集に関心を持ち始めたのは20年ほど前
古本屋で求めた津野地直一氏の「萬葉秀歌の鑑賞」 その頃から好きな歌
向島百花園 |
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8-1424 春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来
明日よりは 春菜摘まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
という歌も詠っています
思いがかなって嬉しかったのでしょう
向島百花園 |
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18-4074 櫻花 今曽盛等 雖人云 我佐不之毛 支美止之不在者
18-4077 和我勢故我 布流伎可吉都能 佐久良婆奈 伊麻太敷布賣利 比等目見尓許祢
越中守として在任中の家持さんと越前に転任していた池主さんとの贈答歌
天平21年3月半ば(749年4月初旬)のやり取りなので越中のつぼみのままの桜は、
八重かもしれません |
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2-830 萬世尓 得之波岐布得母 鳥梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多留倍子
佐氏子首人さんの願いは叶いましたよ、でもそれを伝える歌が詠めなくて残念です
730年(天平2)正月13日、太宰師大伴旅人邸において官人・文人が集まって梅の花の宴が催された時詠まれる
平成31年4月1日 新元号 令和 出典が万葉集! 大感激
初春(しょしゅん)の令月にして 気淑(きよ)く 風和(やわ)ぎ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香 (こうを薫(かお)らす
湯島天神 |
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10-1895 春去 先三枝 幸命在 後相 獏恋吾妹
東京の初雪 粉雪舞う6時半、未詳さんはもっと早く起きたのかも
小石川植物園 |
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10-2318 夜乎寒三 朝戸乎開 出見者 庭毛薄太良尓 三雪落有
東京の初雪 粉雪舞う6時半未詳さんはもっと早く起きたのかも |
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20-4418 和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻巳等奈礼 和我弓礼奈々 都知爾於知母加毛
作者は武蔵国荏原郡の農民
防人として筑紫国に派遣されたときの歌
わが門は故郷の家のことで、残してきた妻女を心配して歌ったものらしい
廣足さん、信じてあげてください |
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1-48 東 野炎 立所見而 反見為者 西渡
現在の宇陀郡大字宇陀町のあたりを丘陵地帯も含めて野といった
かぎろひの丘万葉公園で地元の方が、「かぎろひを観る会に何年も通っているが
未だに見たことがない」と |
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2-142 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
658年11月、斉明天皇・中大兄皇子が紀伊白浜へ行幸中、謀反をくわだてたとして
捕縛され白浜へ連行される途中に詠んだ |
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1-64 葦辺行 鴨之羽我比爾 霜零而 寒暮夕 倭之所念
706年文武天皇難波宮行幸の供をした折、家を懐かしみ歌う
冬枯れの水元公園にて |
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7-1068 天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見夜空
東京の星は数えるほど |
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4-495 朝日影 尓保敝流山尓 照月乃 不口君乎 山越尓置手
櫟子(いちいこ)は男性、天智天皇に仕える
壬申の乱で天武が勝利、大宰府赴任は左遷らしい
都に残した舎人吉成(女官)を偲んで詠う |
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3-334 萱草 吾紐二付 香久山乃 故去之里乎 忘之為
旅人さん、太宰師として大宰府に派遣
この頃、都は平城京だと思われるが、彼にとって都の象徴は香具山か
小石川植物園 |
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18-4109 久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母
クヌギの実は紺黒色の染料となり、これで染めた衣は庶民のための質素なものだった
1字1音で書かれていると、当時の話し言葉や声音まで聞こえてくるような気がする
写真は紅花
小石川植物園 |
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20-4448 安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟
天平勝宝7年5月(755年6月)多治比国人(たじひのくにひと)邸の宴に招かれた折
紫陽花は日本原産で、この時代はガクアジサイだったようだ |
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9-1791 客人之 宿将為野尓 霜降者 吾子羽褁 天乃鶴群
天平5年(733年)遣唐使の船が難波を出航、随員の母が詠う
好きな歌 この写真では想像力に頼るのは無理だろうか |
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10-1892 春山 霧惑在 鶯 我益 物念哉
雪国の春は遅い、5月半ば津南町結東集落を訪れた
谷底を流れる中津川から霧が這い上がる
包み込まれそうな気がして早々に退散 |
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4-573 野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛恋庭 相時有来
4-574 此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思
沙弥満誓(さみのまんぜい)は723年に寺院造営の任で大宰府に赴任していた
翌年太宰師として赴任してきた大伴旅人と交流
任が解けて都に戻った旅人との贈答歌 写真は檜扇の種 |
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1-14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美国波良
今から50年以上前 昭和40年11月(1965年)撮影
大和三山を収めた私のお宝写真 甘樫丘より |